*初出:Local Communication Zine 2007年4月号

もはや、こういったイデオロギーの対立なんてものは
既に形骸化してるのかもしれないけど(そうだと思いたい)、
いわゆる右を、持っている物を守る事を優先させるのが正しいと思う人として、
いわゆる左を、持っていない物を手に入れる事を優先させるのが正しいと思う人とするなら
おそらく自分は緩やかな右だと思います(いや、左的な要素も多々あるのですけど)。
今の現状をそんなに悪いものだとも思わないし、もっとベタな例を出すと、
卒業式で国歌は斉唱されるべきだと思うし、国旗は掲揚されるべきだと思う。
それに、安っぽいヒロイズムも嫌いじゃないもんな。
あ、ヒロイズムってのは裕仁(ヒロヒト/故・昭和天皇)のヒロではないですよ、念のため。
あの天皇制ってヤツについては、いわゆる無用の用ってモノじゃないでしょうか。
…なんて感じで、容認する姿勢を取っている事も、やっぱり右っぽいのかなぁ。

でも、上記の事も、どちらかと言えば保守的って話でありまして、
もう少し定義の条件をキツくすれば、やはり自分は無思想であるのでしょう。
思想とは敵を探す作業、および当該の敵に対しての理論武装だと思います。
差し詰め、哲学ってのは、自分は何の為に生きているのかという空虚を敵とした思想と言えましょう。
敵がいないならいないで悠々自適に生活するという自分の考え方は少しヌルいのかもしれませんね。
しかし、それでも、自分自身が良く考えた上で中庸という選択肢をチョイスするんだったら
それは決して間違ってはいないとも感じるのです。だって、自分で選んだんですから。
あ、そうです。この部分はSherbetのラスト音源「Your Choice」からの引用です。
“you'll never take the wrong way if you choose it from your heart.”

まぁ、自分が無理をして社会派を気取っても、それは実体を持たない空論だし、
過剰な超越願望は身を滅ぼすとも言います。程々で良いんじゃないかなぁ。
何よりも、さも高邁な思想を持っていますという顔をする事が一番怖いです。
自分に実行可能な手段と言えば、観察から抽出された確かだと思われる事実を元にして、
それを矛盾しないように構築していく事くらいでありましょう(いわゆる帰納法ですね)。
観察する主な対象がアレなので、世間様ではオタクと呼ばれる事も多いんですけど。
少々話が逸れますが、自分は決して自らをオタクと呼称したくはありません。
一般の人々にとってのオタクという単語は蔑称であるのですが、
その筋の人々にとってのオタクとは最高の尊称であるのですから。

えーっと、自分は何が言いたかったんだっけ…
要するに、ガツガツと自己主張をしなきゃ気が済まないって生き方は、
あんまり自分の性分には合ってないんだ、と。
好きな音楽を聴いて、好きな漫画や小説、映画を楽しむといった
常住坐臥において平穏無事な感じが自分には合ってるんじゃないかと思います。
先に述べたオタクって人種は、今までに見てきた作品や読んできた作品が
(良くも悪くも)そのまま自らのアイデンティティーと成り得ますしね。
右とか左とかには属さないけど、いざ議論となると鋭いレスポンスを返す。
そんなオタクに僕はなりたい。なろうなろう、あすなろう。明日は檜になろう。
虚構に溺れて、適度に自分の内面に向かいつつ人生を送るのも悪くないですよ。
出来れば、他人に気持ち悪がられない程度で。…というのは高望みのしすぎか。

Take it back, it's too late to say those words.