*初出:Local Communication Zine 2007年1月号

ニーチェが“神は死んだ”としてから100年以上の時が流れました。
しかし、現在となっても神を信仰する宗教といった物が
世界の趨勢の中で重要な位置を占めている事は周知の通りであると思います。
自分はと言えば、神を信じなくても制裁を加えられない国に生まれて
本当に良かったと感じるほどに徹頭徹尾の無宗教者であります。
“神は天にいまし、すべて世は事もなし”なんて感じで、
気障なセリフを言う時には非常に便利だと思うとか、そんな程度。

こんな無宗教、おまけに無思想な自分なんですが、
一時期には自分にピッタリとくる思想や宗教を探そうとしてみたんです。
その一環として聖書と呼ばれるキリスト教の聖典にも目を通しました。
それによって得た物ですか?うーん、そうですね…
有史上、初めて手淫をした人物はオナンという名前であると知った事でしょうか。
まぁ、今回は思うところを真面目に書いていこうって事なんで、
このような下らない話を展開するのには辞意を覚えるものであります。
オナン氏のエピソードは、言ってみれば自慰を覚えるものだったんですけど。

お茶目な与太はともかく話を進めましょう。
自分は現実世界こそが神であるとするスピノザの汎神論には支持する部分が多いです。
そして“神とは概念だ”とするジョン・レノンのステイトメントに共感します。
(ジョン・レノンの他の歌詞には鼻につく物も多いんですけどね。)
上記のような事を書いてしまうと(特にオナン氏についての部分とか)、
敬虔に神という絶対的存在を信じている方には誤解を招いてしまいそうですが、
自分は心から神を信仰している方々の意見や信条に口出しする気は全くないんです。
神という存在を信じる事によって精神的に救われて人生が豊かになったり、
日々の生活が活気付いた物となるのならば、それは本当にかけがえのない事でしょう。
ただ、“神とは概念だ”という考え方に共感する自分の意見にも干渉をしないで欲しい、と。
そういう相互不可侵条約のような物を暗黙の内に結ぶ事が出来ればなぁ、と。

こんな事を言いますのは、宗教や神の存在を有効な物とする場合にも
それは自発的な信仰、能動的な信仰にこそ意味があるのであって、
押し付けられた信仰ってのは如何にもアレじゃないかと思うからです。
神を崇めるがゆえに周囲の人達に干渉し、不快な思いをさせているのならば
人生を豊かにするためという自分が思う宗教の存在意義からは大きく外れたモノとなります。
いや、ウチの母はクリスチャンなんですが(教義的にはプロテスタントの1つなんでしょう、多分)、
ある時に“聖書は絶対な物で、聖書に書いてある事に間違いはない”みたいな事を言われまして。
それに対して自分は、“聖書って原文はヘブライ語でしょ?それが英語だかポルトガル語だかを通して
日本語に訳された物を読んでるんだから、訳される際の誤訳とか改竄(かいざん)が含まれていない筈がない。
そんな物を絶対的な存在にするなんて愚かだ”などといった具合に反論してしまったんですね。
お互いに信条を曲げないでいる余りに、お互いに不快な思いをしてしまったという
貧しいながらも実経験の中からの一例でありましたとさ。あの時はゴメンね、マミィ。

そんな訳で、自分だけの、または自分達だけの我を通していたらロクな事にはならない、と。
宗教に限らず、異なる価値観が混在し、居心地の悪い中にあっても、中指を立てるよりは
親指を立てた方がお互いにとって多少なりとも居心地が良くなるんじゃないかと思いますねぇ。
以上、非常にまとまりを欠くものの、自分が自覚的に無宗教でいる理由と、
そんな中にあっても信仰心(≒譲れない何か)を持つ人との軋轢は避けたいなとか、そんな話でした。
そして、やはり自分は聖なる物よりも、性なる物に心を惹かれるんだ、と。
(うわぁ、長々と書いてきた中で一番説得力があるな、ラストの部分は。)

Take it back, it's too late to say those words.